エンタがビタミン

writer : maki

【エンタがビタミン♪】斉藤由貴「自分が削られる」ようなアイドル時代 救ってくれた“ユーミン”と“松本隆”

幼少時代は内向的で「基本的にはわりといじめられっ子」だった斉藤由貴は、友達もできず家に帰ると鏡の自分と会話する日々を過ごした。小学校2年生の時に初めて買ったレコードがチャイコフスキーの『金平糖の精の踊り』(バレエ組曲『くるみ割り人形』より)だった。『不思議な国のアリス』のような「迷宮的なものの匂いに惹かれるところがあった」という彼女は、周りの皆が当時はピンク・レディーに夢中になるなかでそうした音楽を聴いて「内にこもった子どもだった」と振り返る。

やがて成長して高校に進学するも、内気な性格から学校を休みがちで「迷ってばかりいる子どもだった」「遅刻・欠席・早退の王様で、バスに乗って終点の横浜駅まで行きブラブラしていた」と明かす。母親はさすがに心配して『東宝シンデレラオーディション』を受けてみるように勧めた。母親自身が若い頃に宝塚に憧れたが夢を追うことができなかったことも手伝い、娘が活発になるきっかけになればと思ったのだ。

すると膨大な応募者から最終選考の数十人に残る。審査で他の皆は松田聖子の『赤いスイートピー』などのヒット曲を歌うが、斉藤由貴はジュリー・アンドリュースの『サウンド・オブ・ミュージック』を英語で歌った。5、6歳の頃に家族で映画館に初めて観に行った思い出の映画で覚えた歌である。1984年、オーディションをきっかけに芸能界に入り少年マガジンの『第3回ミスマガジン』でグランプリを獲得した彼女は、人気アイドルへの道を歩みはじめる。

だが内向的な性格が急に変わるはずもなく、上手く振舞えずに「自分は芸能界に向いているのか?」と悩んだ。彼女は当時の状況を「アイドルは詰め込まれるだけスケジュールを詰め込まれて立派」という風潮で「夜中の2時から表紙撮影とかもあって、頭が変になるような感じ」「自分が削られているという自覚はあった」と思い出す。孤独感が続くなかでなおアイドルを続けるには「今が幸せへのステップ」だと思い込むしかない。そんな時に聴いたのがユーミンの『ダンデライオン~遅咲きのたんぽぽ』(1983年8月)だった。

「今思うとベタな歌詞なのに、ダイレクトに励まされた」と照れ笑いする彼女に、松本隆は「人生とはそういうもの、大事なこと」「真実は月並みななかに紛れている」「普通の物なんですよ」と共感した。

18歳となった斉藤由貴は、1985年2月にその松本隆が歌詞を書いた『卒業』で歌手デビューを果たし一躍人気アイドルとなる。2人の運命的な出会いだった。松本は斉藤を見て「周りに流されない芯の強さと儚い魅力」を感じたという。『卒業』に「卒業式で泣かない女の子」を描いたのもそんな彼女のイメージから発想したのだろう。

対談しながら『卒業』が流れると松本は「あとから聴くと泣きたくなるね」としみじみと話す。斉藤は「そういう女の子っているよね。いてもおかしくないよね」というのがずっと今の時代もあるという。30年経った今も「すごく分かります」と言ってくれる人がいるそうだ。彼女の言葉に松本は「たぶんね、死んでもまだ残ると思う。そのぐらいの普遍性に行き当たっちゃった」と感慨深げだった。

実は似たようなことをおよそ1年前にマツコ・デラックスが語っている。2016年2月23日放送の『マツコの知らない世界』(TBS系)で“時代を超えた名曲!昭和の卒業ソング”が話題になるとマツコは「好きなのは、やっぱり斉藤由貴さんかな」と『卒業』を挙げた。卒業ソングなのに「全然感動的でなくすごく醒めた歌」「周りで卒業だとぎゃーぎゃー騒ぐ同級生を小バカにした歌。すごい歌詞よね」とマツコ流に解釈した。松本隆の言う通り、そのようにして残り続けるのだろう。

2月23日のNHK Eテレ『ミュージック・ポートレイト』では「松本隆×斉藤由貴 第2夜」が放送される。2人からいったいどのようなエピソードが語られるのか想像もつかないが、それだけに楽しみである。

出典:https://www.instagram.com/takashi_mtmt
(TechinsightJapan編集部 真紀和泉)

『卒業』を歌う斉藤由貴(出典:https://www.instagram.com/takashi_mtmt)

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