戦中戦後を描いたアニメ映画「火垂るの墓」は日本だけでなく海外でも有名な作品である。中国やアメリカで「火垂るの墓」を見た者の感想には同様に「泣いた」という声が多い。どの世界でも戦争中、あるいは終戦直後という環境で子どもが暮らしていく辛さは同じなのだ。そして、そんな時ほど人の親切が本当にありがたく感じられるのである。俳優、財津一郎が「ごきげんよう」で語った終戦後に体験したエピソードでも人の温かさをしみじみと感じる場面があった。
10歳の財津一郎は、病の母親の為にと農家に頼んで小豆や大豆などの穀物を手に入れることができた。しかし、それを村のごんたくれ(悪ガキ)のいじめで泥道にぶちまけてしまった。
泥だらけの食料をかき集めて泣きながら歩いていると、農家のおばあさんが無言で手招きするのが目に入った。
彼は誘われるままにおばあさんの家にあがると囲炉裏端に座らされた。席を立ち仏間の方へ歩いていったおばあさんは大きな餅を持ってきた。
おばあさんはやはり無言のままそれを囲炉裏の火で焼くと、彼に食べろというしぐさをするので、餅を手にとってちぎって食べようとしたのだ。
しかし、いい米でしっかりつかれた餅だったのでなかなかちぎれない。「切れない、切れない!」食べたいが切れないのだ。悲しくなり大泣きすると初めておばあさんが口を開いて「よかよか。食べたらよか」とやさしく声をかけてくれた。
彼もそれで落ち着いてなんとか餅を食べて、母の分の餅も1個もらい「ありがとうございました」と礼をして家に戻ったのである。
ようやく家にたどり着いた彼は、布団で寝ている母の前に荷物を下ろすと「うわーっ」と号泣した。
病床の母は「どうしたの、疲れたろ」と彼に声をかけた。その目尻には涙が流れていた。
財津一郎は、その時の母の涙が今も脳裏に焼きついているそうだ。
彼は「この頃の体験があるからその後のどんな辛いことも乗り越えられた」と話した。
やがて母親も病が癒えて、その後は財津一郎ら兄弟と順に暮らした。財津一郎宅に同居していた母親が75歳の頃、パーマをかけて来たことがある。
食事の時に財津一郎のとなりに母が座るとパーマのきついニオイが気になり、彼も疲れていたので「そのニオイじゃ飯が食えないよ」と文句を言ったのだ。母は静かに立ち上がると洗面所に行って髪を洗っていた。
後に彼が役づくりで髪を染める時にニオイがすることに気づくと「なぜ母にあんなひどいこと言ったのだろう」と悔やまれたのである。
財津一郎は今、その時の母親と同じ年代となった。すでに亡くなった母を思うと、子どものころ見た母の涙と合わせて、その時のきつい言葉が思い出されて慙愧に堪えないと言う。
この時、共演していたコーラスグループ、サーカスの4人と女優の奈美悦子らは目頭を熱くして財津一郎の話に聞き入っていた。観客席も彼の熱い語りにいつもとは打って変わって物音ひとつ立たず、話に集中している様子が伝わってきたのである。
(TechinsightJapan編集部 真紀和泉)