エンタがビタミン

writer : maki

【エンタがビタミン♪】「若手はサウンドが違う」。吉田兄弟が明かす、三味線界でも起きた次世代の波。

それまで民謡や演歌の伴奏などでしか目にしなかった三味線をポピュラーにして、国内のみならず海外にもファンを作った世代が上妻宏光や吉田兄弟だろう。今も世界規模で活躍する彼らだが、その後には早くも次世代の三味線奏者が育っているようだ。

国民に広く津軽三味線をアピールしたのは記者の記憶では演歌歌手の松村和子がヒット曲「帰ってこいよ」で使用されたことが最初ではないだろうか。それが1980年のことだ。三味線の奏法は荒っぽく大きく二つに分けて「津軽三味線」と「長唄」とで異なる。棹の太さやバチなど細かい説明をするのはここでは避けるが、松村和子のように威勢よくベンベンとバチで叩きつけるように弾くのは津軽三味線で、日本舞踊を踊る時に唄の伴奏をするのが長唄風とイメージすると分かりやすい。

主として楽曲などのアプローチに革命が起きたのは津軽三味線の世界だった。吉田兄弟がデビューしたのが1999年、上妻宏光が2001年で彼らは従来の民謡などの演奏が素晴らしいのはもちろんだが、ロックやポップス、あるいはジャズやクラシックと三味線を融合させていくのだ。それまでにもそうした試みはあったがそれを追求して完成させ、しかもジャンルとしてしまったのは彼らが初めてといえるだろう。

中でも吉田兄弟は民謡酒場で演奏した頃の下積み時代の苦労がLIVE演奏で役立っているという。当初はイスに座り前かがみになって弾く演奏スタイルに対して先輩らから「邪道だ」と指摘されたりもしたのだが、彼らは自分達のスタイルをつらぬき今の成功を勝ち取ったのである。

その吉田兄弟、吉田良一郎(兄)と吉田健一(弟)が7月18日に放送されたラジオ「古澤巌のKeep on Smiling」に出演した。彼らはその際に津軽三味線のフレーズに関して興味深い話を聞かせてくれた。「民謡なども地域に根付いた昔ながらの曲ほどフレーズに訛りがあって、演奏するのが難しい」というのだ。今の時代にあわせてフレーズをアレンジした最近のモノほど演奏はしやすいというのである。
吉田兄弟の楽曲はもちろん、彼らのカラーに仕上がっているのだ。だが、それは現在において最先端の津軽三味線による楽曲かというとそうではないらしい。「若手のサウンド、フレーズはもはや、僕達とは違うものを感じますね」と吉田兄弟は言うのだ。三味線界でも次世代の若手が現れているようである。

調べてみると「津軽三味線で吉田兄弟や上妻宏光に続く若手奏者の有望株」とされるのが、淺野祥、新田昌弘、小山豊、柴田雅人という。残念ながら記者はまだ聴いたことがないのだが、エレクトーン、和太鼓などとコラボするなど先輩が道を作った三味線の方向性を広げているようだ。近々耳にすることになるだろう。

吉田兄弟の話に戻るが、彼らが話した三味線に対しての姿勢には学ぶところが多い。「三味線で伝えるべきモノを追求することが『伝統を引き継ぐ』ことであり、昔ながらの演奏をそのまま維持することだとは思っていない」と言うのである。
無形文化財のような伝統芸能を継承するには『そのまま100%を真似る』ことが最重要とされるのだろうが、芸能を受け継ぐことはそっくり真似ることよりもその「精神」を受け継ぐことなのだと考えさせられる。

以前、津軽三味線の御大、高橋竹山(たかはしちくざん、1998年喉頭がんにより死去)のLIVE演奏を観る機会があったが、彼は「私は大道芸人なんですから」と気さくに語り、いとも簡単に超人的な演奏をやってのけた。三味線を歯で弾いたり、頭の後ろで弾いたりとそれはロックギタリストのジミ・ヘンドリックスが得意としたパフォーマンスと同じだったことに感激したことを覚えている。おそらく、当時日本一といえるであろう津軽三味線を聞かせながらその合間には芸人のようなMCを挟むのだ。「津軽は寒いから、焼酎のお湯割りが一番」というような話だった。

名人とされる高橋竹山が三味線によって伝えたかったことは確実に吉田兄弟ら次世代に引き継がれているようだ。
(TechinsightJapan編集部 真紀和泉)