食レポで出された人気メニューのエビフライを見て「わ、小さい」と口走り店主を激怒させる。再婚して最初に夫婦で訪れた温泉地で2日間連続単独で競艇に出かけ、“勝手すぎる”と抗議する妻を「亡くなった妻なら文句を言わなかった」とテレビ番組で愚痴る。このように人の気持ちを逆なでする言葉を何の躊躇も無く口にする蛭子能収(66)が、今年約20年ぶりに再ブレイクしている。なぜか憎めない、嫌われない蛭子はどんな人生を歩んできたのだろうか。
長崎市で育った蛭子能収は地元の高校在学中、美術部に入っていた。グラフィックデザイン関係の仕事に就きたいと先生に相談したところ、長崎にはそのような会社が無いため“同じような仕事ができる(?)から”と看板店を勧められたという。紹介された看板店に就職したところ、実際の仕事はほとんど看板の取り付け作業。デザインの仕事など皆無の毎日の中で唯一、蛭子が興味を持ったのは看板店の同僚が作っていた漫画クラブ。月1回この会合に顔を出すようになってから、初めて漫画を描いたのだという。そして「会社を辞めたい、辞めたい」と思いながら、5年近くの年月が流れていた。
ついに看板店勤めに堪えられなくなった蛭子は、1970年に「大阪万博を見に行く」と噓を言って会社から休暇をもらい、逃げ出すようにそのまま上京。東京では脚本の勉強がしたい―と1年間、シナリオ教室に通っていた。だがこのシナリオ教室では一人も友達ができなかったばかりか、「誰とも喋った記憶が無い」ほど孤独な毎日を過ごしていたらしい。“これではダメだ!”と奮い立った蛭子が、東京で勤めた先がなぜか再び看板店だったのが彼らしい。その看板店には寮があり、毎日の食事が提供された。その寮で暇さえあれば、漫画を描く日々が始まったのだ。
描き上げた作品をある漫画専門の出版社に持ち込んだところ、すぐに入選。26歳で漫画家デビューとなったが、その出版社は金銭的に苦しかったため原稿料を入れてもらえず、バイトをしながら漫画を描き続けたという。芸能界デビューのきっかけは蛭子の漫画のファンだった劇団『東京乾電池』の柄本明からポスターを依頼され、劇団に出入りするようになったことからである。彼のキャラクターを気に入った柄本から、「ウチの劇に出てみないか?」と誘われ1回だけ舞台に立った。その舞台を観ていた『笑っていいとも!』の初代プロデューサーが、蛭子をスカウトしたのだ。そして40歳で『笑っていいとも!』に出演した彼のもとには、ドラマやバラエティ番組への出演依頼が殺到。1980年代後半から1990年代前半まで、第一次“蛭子能収”ブームとなったのだ。
今年またバラエティ番組に引っ張りだこの人気者となったが、本業の漫画家としても月50万ほどの収入があるらしい。だが今回出演した10月11日深夜放送の『ブラマヨとゆかいな仲間たち アツアツっ!』(テレビ朝日系)のスタジオ観覧者ほとんどは、蛭子の漫画を読んだことが無いようだ。そこでMCのブラックマヨネーズが彼の4コマ漫画を紹介したが、主人公が“生首”を放り投げて遊ぶ内容の面白さが理解されず、スタジオ内は微妙な空気に包まれた。蛭子は最近良い案が浮かばないと言いつつも、描きあげるとどんなにつまらない作品でも相手先には必ず納めるとニヤニヤ笑う。この話に私どもの過去の記事で、お笑い芸人の田中卓志(アンガールズ)から悩み事を相談された蛭子の答えが、“世の中の人は真剣に(田中のネタも、蛭子の漫画も)見ていない”だったことを思い出す。
自分の漫画は「描いた以上はボツにはしない」と語る蛭子。苦労して描き上げた漫画には深い愛情があり、他人がそれをどう評価しようと関心が無いのだ。人間性に問題がある―とよく周りから指摘される吉田敬(ブラックマヨネーズ)でさえ、恐れるものがない蛭子の発言の数々に少々呆れ顔であった。
(TechinsightJapan編集部 みやび)