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writer : miyabi

【エンタがビタミン♪】「朝からパチンコ店に並んだ」。TOKIO・国分太一が語る、ジャニーズらしくない下積時代。

アイドルグループTOKIOの国分太一がジャニーズ事務所に入ったのは13歳、中学1年の時だった。当時はすぐに雑誌の紙面を飾るなどして、国分自身もこのまま芸能界で生きて行こうと考えていたらしい。だが本格的に芸能活動を始めた彼を待っていたのは、長い下積生活であった。

3月24日放送の『アシタスイッチ~MY TIME TO SHINE~』(TBS系)で国分はある映画で共演してから親交のある、作家の乙武洋匡氏と対談。国分が普段はあまり話すことがなかった、“父親との葛藤”“長かった下積時代”について語った。

光GENJIファンだった姉が履歴書を送ったのがきっかけで、ジャニーズ事務所入りした国分。小学生時代は野球少年だった男の子に、中学1年の後半にはアイドル雑誌の仕事が入り始めた。すると同じ学校の女子から騒がれるようになり、先輩男子からは「アイツ調子の乗ってるな」と目を付けられる存在になったという。そして中学3年になると仕事が忙しくなり、学校を欠席することが多くなっていった。

芸能界が楽しくなった国分は高校に進学せず、仕事一本で頑張って行こうとさえ考え出していた。だが彼の父親は息子の決断を猛反対した。「高校だけは普通に卒業して欲しい」と譲らなかったという。父親自身が中卒で随分苦労した人生を送ってきたと言い、息子にはどんな職業を選ぶにしても高校だけは出て欲しい-と願っていたのだ。

父親の意見になど全く耳を貸さなかった国分はとうとう、勘当同然で家を飛び出すこととなった。最後には“お金の援助は一切しない、失敗しても家に戻ってくるな”との父の言葉に、“国分家を離れます”と一筆書いてまで親元を離れたのだ。「若気の至りですね」と苦笑いしながら、国分は当時を振り返った。

だがジャニーズの寮で生活し始めた16歳の頃から、仕事量が極端に減ってきたという。雑誌の仕事が月に1本あるくらいの生活が2年ほど続き、18歳になると全く仕事が入らなくなっていた。その頃の生活はアイドルとは思えぬ毎日だった。「パチンコ店に、朝から並んでいました。すると後にリーダー(TOKIO・城島茂)も店に入ってきた」と淡々と説明する国分。2人のパチンコをして過ごす日々は長く続いたという。

将来に不安を感じながらも、彼には芸能界を辞めて帰る場所が無かった。あれだけ父親に啖呵を切って家を出てきたのだ。何としても成功した自分の姿を両親に見せるまで、ここで頑張るしかなかった。

国分が13歳でジャニーズ入りしてから7年、20歳の時やっとロックバンド「TOKIO」としてCDデビューを果たす。彼がどんなに苦しくてもやる気を失わなかったのは、やはり父親の厳しい言葉があったからだと本人も認めていた。そして国分の父親も苦労している息子を、黙って遠くから見守っているしかない辛さに長い間、耐えていたはずである。
(TechinsightJapan編集部 みやび)