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writer : maki

【エンタがビタミン♪】「社会性がなかった」。国生さゆり“おニャン子時代の苦悩と転落”を暴露。

元おニャン子クラブの国生さゆり(43)は先日、長年犬猿の仲とされた新田恵利との和解を公表した。1985年のおニャン子クラブ結成時から25年が経ち、ようやく当時を冷静に振り返ることができたようだ。

そんな国生さゆりが、今だからこそ語れるようになったのがおニャン子時代の失敗談なのだ。これは7月25日に放送された福岡のテレビ番組「ナイトシャッフル」(FBS)の中で国生自身が明かしたもので、彼女の人気が急降下した原因とも思われる部分もある貴重なエピソードといえそうだ。

おニャン子クラブの会員番号8番、国生さゆりは新田恵利と共にトップに立つほど人気があったが、ソロデビューも遅く意外と不遇な時代があった。
「はっきりいって大事にされてなかった」と国生はその頃を振り返る。
学生時代は陸上部のキャプテンを務めていたほどの体育会系気質の彼女は競争心が強く、自分より優遇される後輩を見ては「なぜ、あの子が私より先にデビューなの?」、「なんであの子がピンクの衣装で私は緑なの?」と不満を感じていたのだ。

その後輩というのが会員番号12番の河合その子や17番の城之内早苗などである。彼女達はかなり良いロケーションで撮影を行い「もの凄くきれいなジャケット写真でソロデビューした」と国生は語る。
彼女はといえば「自分でスタイリングしてメイクして。『平凡』か『明星』の取材の合間に撮った写真がジャケットに使われた」というのだ。

そのジャケット写真が使われたCDがソロデビューシングル「バレンタイン・キッス」だったのである。国生さゆりが19歳だった1986年2月1日にリリースされたこの曲は大ヒットして現在でも歌い継がれているのはご存知の通りだ。
そしてこの時が国生さゆりの絶頂期といえるだろう。世間を知る前からアイドルとなった彼女は「そんなには社会性が無くても良かった」と言う。そして「周囲からチヤホヤされて調子に乗っていた」と後悔するのだ。

テレビではプロデューサーの下にディレクター、1st(チーフ)と続き、さらに2nd、3rd、4thという図式が成り立っている。
当時の国生は「社会性も無かった」からか、その役割は一生そのままだと思ったのだ。やはり3rd、4thの者は仕事がさばけない。そんな彼らに対して彼女は「あんた何やってんの!」、「バカじゃない!」と叱りつけていた。しかも「蹴ったりした」というのだ。
ところが、時は過ぎ、彼らがプロデューサーになったのだ。彼女は「フジテレビの番組から全然呼ばれなくなった!」と今思い出しても頭が痛くなる思い出だと言う。
こうして25歳ごろから仕事が減ってしまった、国生さゆりだが、地道にドラマやバラエティで新たな「国生さゆり」として人気を取り戻したのはさすがである。

国生さゆりは現在、交際中の7歳年下のコンサルタント会社社長とは来年2月14日に“バレンタイン婚”の予定を発表している。彼女の周辺はこれからますます活気付きそうである。
(TechinsightJapan編集部 真紀和泉)