エンタがビタミン

writer : maki

【エンタがビタミン♪】「せまい了見を超えるロックスター」。桑名正博さんの訃報に同期の泉谷しげるが思い出綴る。

10月26日に亡くなったロック歌手の桑名正博さんと同時期にフォーク歌手としてデビューした泉谷しげるが、ブログで当時の思い出を綴った。泉谷はまだ「ロックは不良のすること」といわれた頃も、桑名さんの音楽はそんな垣根を飛び越える魅力があったとその活躍ぶりを振り返っている。

7月15日に自宅で倒れた桑名正博さんは脳幹出血による意識不明となったが、奇跡的に命をとりとめていた。彼が再び元気な姿を見せてくれることを願っていた矢先、10月26日に息を引き取った。

訃報を知った泉谷しげるは「ちくしょお…桑名戻らずかよ」と、自分より若い彼が逝ったことへの無念をブログ『うびょ~とんのみらい日記』で綴っている。一見交流のなさそうなこの2人だが、「オイラとおんなじ1972年デビューなんだよ」と記した泉谷。桑名さんはロックンロールバンド『ファニー・カンパニー』として、シングル「スウィートホーム大阪」をリリースしてデビューを果たしている。

当時はまだロックといえばブリティッシュやアメリカンが主流で、日本語の歌詞でロックを歌っても世間の評価は低かった。だが泉谷は「ロックンロールサウンドに関西弁の歌詞だからね~。だからってキワモノにならず歌のうまさもあって迫力あるロックンロールを見せつけたもんさ!」と、桑名さんの歌がそんな状況をものともしなかったことを証言しているのだ。

正確には、泉谷がデビューしたのは1971年に出したライヴアルバム『泉谷しげる登場』となる。1972年に出したオリジナル・アルバム『春・夏・秋・冬』にも収められている「黒いカバン」は、警官から職務質問される内容で放送禁止となり話題となった。

「平気でフォークの連中の楽屋に遊びに来て談笑してくれた」と、泉谷は桑名さんが若い頃から気さくだったことを思い出す。彼は今以上に暴れん坊のイメージがあった泉谷にも「あんたオモロイ歌ってまんな~」と話しかけると、他のミュージシャンの音楽をすすめたりする親しさがあったそうだ。

泉谷しげるはそんな関係を振り返り「せまい了見を超えるロックスターは当時、桑名正博だけだったのでは?」と彼の枠にとらわれないスタイルを評価する。そして「桑名には華があった。ロックの不良性がどうのこうのを飛び超える華だ」とその魅力を称えていた。

ミュージシャンとしてだけではなくバラエティでも流暢なトークで楽しませてくれた桑名さんは、入院する4日前に収録した『ライオンのごきげんよう』でも、「以前、大阪でジョン・レノンとすれ違った」などのエピソードを嬉しそうに話していた。

最期まで、彼はミュージシャンやタレントという枠にとらわれないエンターテイナーだったのだ。ご冥福をお祈りしたい。
(TechinsightJapan編集部 真紀和泉)