writer : tinsight-yokote2

【巨大地震・盛岡から】その16 生存者は口にする。 「津波 “てんでんこ” が大事。」

リアス式の美しい三陸の海岸線の港と町をあっという間に呑み込んで、戦後の焼け野原のような無残な姿に変えてしまった今回の大津波。記者も初めて知った言葉ですが、高台に避難して無事であった人たちの口から今、“津波てんでんこ” という言葉が漏れているようです。
 
“津波てんでんこ” とは、町の防災サイレンから津波警報が流れたらもう親も友も探さない、とにかく1人で(幼い子は一緒に)さっさと高台に逃げろという、沿岸部に伝わる独特の言葉だそうです。

実は今回の震災・津波により多くの死者、行方不明者、避難住民を出した宮古市田老町は、1958年から着工が進められた高さ10mの「防潮堤」のお陰で、着工2年後の1960年に起きたチリ地震・大津波では、最大で高さ6mが観測されたものの被害を受けていません。そのため海外の防災関連機関からも、見学者が次々と訪れたものです。

ところが総延長2.8kmとなっていたその防潮堤も、今は見る影もなくバラバラ。「あのチリ大津波でもビクともしなかった。また防潮堤が守ってくれるから大丈夫」と信じて自宅を離れなかった人、津波襲来の瞬間を見てみたいなどと逆に近くに寄って行ってしまった人などが、残念ながら高波にさらわれた次第です。

その一方で、定期的な避難訓練を徹底して行っていたという釜石市の小中学生の避難率は100%、ほぼ全員の無事が確認されました。また徐々に分かって来たことですが、各世帯から避難所まで最短距離で行ける通路や階段を整備し、高齢者を乗せるリヤカーを配置、サイレンから避難完了までをストップウォッチで測るといった真剣な訓練を定期的に繰り返していた、そのような町では死者・行方不明者がゼロ、あるいはごくわずかとなっています。

町の自慢でもあった「防潮堤」を信じ、避難せずに命を落とされた田老の方たちに油断があったとは決して言いません。ただ、“それでもなお” といった慎重論での定期的な訓練がいかに大切であったかを、改めて学んだ気がします。
(TechinsightJapan編集部 古瀬悦子)