エンタがビタミン

writer : maki

【エンタがビタミン♪】「火垂るの墓」のよう。聞くものが目頭を押えた財津一郎の終戦直後の体験。(前編)

「火垂るの墓」はスタジオジブリによるアニメ映画で子どもにも知られる作品だが、原作は作家、野坂昭如が終戦前後の実体験をまじえて著したものだ。その野坂昭如も体調を崩し、今ではメディアで戦争体験を話す有名人も少なくなった。10月26日の「ごきげんよう」に出演した俳優の財津一郎(76)が語った終戦直後のエピソードには共演者も涙を禁じ得なかった。

「火垂るの墓」の作者、野坂昭如は脳梗塞で倒れる前まではメディアに登場して戦争体験を語ることもあった。彼の子ども時代、終戦前後には食べ物が無かったというエピソードをよく話していた。「ごきげんよう」での財津一郎の話もやはり食べ物で苦労した内容から始まった。
1945年、第二次世界大戦の終戦が玉音放送で国民に知らされた時、財津一郎は小学校5年生だった。彼によるとそれから2~3年が最も過酷で「地獄のような」生活を送ったという。なにより食べ物が無かったのだ。米や麦は当然手に入らずヌカを食べ尽くし、芋を食べ尽くし、芋づる、フスマ(小麦の殻)…全てを食べ尽くして、みんな栄養失調だった。母親はカッケを患い寝込んでいたのだ。
財津一郎と兄弟3人は「このままでは死んでしまう」と機銃掃射の弾丸が散らばる竹やぶでミミズを掘った。それをエサに1時間ほど離れた河口で川エビを釣ることに成功したのだ。バケツ一杯とれた川エビを1時間かけて持ち帰り茹でようとするが燃やすものが無い。そこで彼が考えたのが「アメリカ軍が落とした焼夷弾。八角形の円筒形」だった。その中にまだ燃料が残っておりそれに火をつけてバケツごと茹でたのだ。
塩など調味料も無いので岩塩を見つけてそれを放り込んで塩味にした。兄弟3人はバケツに首を突っ込むようにして川エビを食べたのだった。

そうして日々の食べ物をなんとか手に入れていたのだ。ある日、財津一郎は病で寝込む母親に栄養をつけさせねばと、自分のセーターやチョッキなどを持って農村部へ向かった。
農家で「すみません、おふくろがカッケで起きられません。これでなんか食べるものと換えてくれませんか?」と頼んでまわったのだ。彼が10歳の頃である。
農家の人にとっても食料は貴重である、米や麦はくれない。しかし、彼が子どもだということもあったのだろう「小豆、大豆の乾燥させたものを雑納に放り込んでくれ、じゃがいもももらって…」なんとか食料を手に入れたのだ。
彼は家路を急いだ。すると村のごんたくれ(悪ガキ)が5、6人現れて彼を取り囲むと「おまえは何しに来たとか?」と迫って来た。
彼は「おふくろがカッケで…」と理由を話したが通用しない。「町から食い物をあさりに来たとか」と肩を突き飛ばされた。さらに一番大きい大将格が竹の棒で叩き、次に力任せに突いてきたので財津一郎もたまらず倒れた。
そのはずみで雨上がりに馬車馬が通り、泥だらけになっている道に農家でもらった穀物がざっとこぼれ落ちたのだ。
それを見てプツンと切れた彼は、ガキ大将の竹の棒をとりあげて地面をわめきながら叩き続けた。気がつくと誰も居なくなっていた。
彼は泣きながら泥ごと穀物をかき集めて雑納に入れて歩いていると農家のおばあさんが目に入った。

ごんたくれ達が使う言葉でもわかるように、財津一郎が当時暮らしたのは九州の熊本県である。財津一家は父親が農林省に勤めていたので東京に住んでいたが、その父が戦争で中国へ出征して彼らは1944年に故郷である熊本へ疎開したのだ。
10歳の子どもが慣れぬ土地で食べ物を求めて農家を回り、地元の子どもからよそ者扱いされるという、まるで映画のような体験談である。
しかし、この話には続きがありさらに感動的な展開となるのだ。それについては(後編)でお届けしたい。
(TechinsightJapan編集部 真紀和泉)